筍に乗って、どこまでも。

高く高くどこまでも伸びろと、筍にしがみついた彼だったが、空腹に耐えきれずにその筍を食べてしまった。バターで軽く炒めたのだ。

「灯り」の話(ただの愚痴)

 

 

 「電気くらい点けろや!」

 シャワーを浴びていた時のことである。

 電気を点けていなかったことは申し訳なく思っている(つゆほども思ってなどいない)。しかし、湯浴みをする時は、お目々から余計な刺激など受けずに洗面所から漏れるわずかな灯り(とは言えシャンプーかボディソープかくらいは分かる)の中で私はリラックスをしたいのだ。

 冒頭の言葉は、入れ歯を外しに洗面所に赴いた父から、扉越しに浴びせられたものである。扉を開け、「なんで?」そう問いかけた私に父は険しい顔をし、「何を訳分からんこと言うとんねん」と一言残し、立ち去った。

 分からないなら聞けばよいではないか。「なんで電気点けてないねん」そう、これでいい。そう問われれば私は「なんで点けなあかんの?」そう問い返すであろう。

 

 街が眠ることは無くなった。文明と共に、発電の技術は発達し、そして「朝型」「夜型」というように、活動パターンもそれぞれとなった。しかし、そもそも、サルから進化した我々人間もただの動物であるわけで、サルと同じように、肉や骨、神経、血液、細胞を見てもほとんど変わらないことであろう。ただただ脳みそが発達しただけの話で、しかし脳みその組織や部屋の数に変わりがあるわけでもない。

 それだのに、光を灯さずに湯を浴びるだけで、怪訝な顔をして、常識を疑うような目で見られ、理由のない言葉を用いて明確に否定されなければならないのか。私にとってはそちらの方が訳が分からない。昔の人たちは灯篭の灯りの下、池で身体を洗っていたではないか(知らんけど)。

 これを読む人の中には、「直接言えばいいやん」と思う方もいることであろう。しかし、言っても仕方がないのだ。私が「こう考えている」とひとつの見解を示したところで、「そうか、お前はそう考えてるんやな。お前の生活やし思ったようにしてみればいい。」などというような言葉は、経験上、絶対に返ってこない。理解してもらえるまで押し通すほど大した話でもない訳で、あの方を苛立たせながらもただただ貫き、腹の中で嗤い、たまにこうして人に頭の中をひけらかすことで、やり過ごすのが一番ラクなのである。

 子の父となる方、なった方が、僕の周りだけでも幾人かいることであるが、子のすることに疑問を抱いた時、理解を面倒くさがり、否定し、押さえつけるようなことはしないようにと願う。私のように、25にもなるいい大人が、こんなガキのようなことを口にすることとならぬよう。

おやすみんみんゼミ